もし自分の年齢を知らなかったら、今の自分を何歳だと思うかね?


bacd6fa3abed62271520691ce69b9cf0 もし自分の年齢を知らなかったら、今の自分を何歳だと思うかね?30代半ばから徐々に後半に差し掛かり、不惑の40代も視野に入ってきた。経験が蓄積され、人付き合いや、仕事における力の入れ所もだんだん分かってきて、意気だけはますます盛んな今日この頃。

ただ、相変わらず遅刻しそうな電車にダッシュしたり、深夜まで飲んだ後の翌朝とか、あれ、なんか疲れてるな、と思うことがある。周囲の友人も、たまに「この歳で・・・とは」的な自虐ネタを言うことも増えてきている。

僕は基本、考えても仕方が無いことは考えない性質なので、年齢など意識しないようにしている。むしろ、意識しだすとますます年取るんじゃないか、と思ったりもするんだけどどうだろう。

そんな僕の考えを、気持ちいいくらいに代弁してくれる名言に巡り会ったのでご紹介したい。
発言の主は、サチェル・ペイジという大リーガー。詳細は割愛するが、42歳で大リーグ、インディアンスに入団し5年間ピッチャーとして活躍。一度引退するが、その後なんと59歳でアスレチックスと契約し、大リーグで登板したという人物である。

ペイジ曰く、

年齢というのは、むしろ精神的な問題。気にしなけりゃ、どうってことないものさ。
もし自分の年齢を知らなかったら、今の自分を何歳だと思うかね?


僕は特に最後の一文が好きだ。もし自分の年齢を知らなかったら、今の自分を何歳だと思うんだろう。

年齢を客観的に数えるのではなく、自分の意識に聞いてみる。

そんな風な考え方をしていると、何だか不思議な感じがして、少し力が湧いてくる。

どうでしょう?痛快ないい言葉だと思いませんか?

 

新規事業アイデア作りは「レシピ」作りである


新規事業を立ち上げるのは、大企業であれベンチャー企業であれ簡単なことではない。

その難しさのポイントはいくつもあるが、そもそも最初の第一歩、つまり「何をやるか」という、事業アイデアを出していく部分からなかなか難しいと感じる人が多い。

「そんな素晴らしいアイデアなんて、俺たち一般人にはなかなか出てこないよ。」
はっきりと口に出すかどうかは別として、どうも「新しいアイデア」を出していくということに対して、及び腰の人が多いようである。

thumb 新規事業アイデア作りは「レシピ」作りである

新規事業立上げの現場では、例えば100のアイデアをとにかく出し、そこから何度かの絞り込みを経て最終的に1つ~2つ程度の案が残る。つまり、まず100のワイルドなアイデアが出てくることが重要なのだ。

もちろん、アイデア出しを助けるためのフレームワークもいくつも存在している。ただ、心の奥底で、「新しいアイデアを出すのは難しい」なんて考えていると、いくらフレームワークがあったところで、新しいアイデアを出すこと自体に気が進まない、自信が出ない、と思ってしまう。

 

そこで提案が1つ。こう考えてはどうだろう。「新規事業アイデア作りは、レシピ作りと同じなのだ」、と。

どういうことかって?では早速、料理をメタファーに話を進めてみるとしよう。

 

1.食材を把握する

料理をするなら、まずは食材からだ。台所に行き、冷蔵庫に入っている材料を確認する。岐阜県産の有機卵や宮崎産地鶏、牛肉、キムチ、しらたき、トマト、タマネギ、レタスなどなど。その他醤油、砂糖等の調味料がある。こういったものを大体頭に入れておくのだ。

これは企業でいうと自社の持つアセットにあたる。ヒト・モノ・カネ・情報・技術・取引先・ブランド・・・。自社が持っている強み、協力会社から調達できるものも含めて、使えそうな材料を頭に置いておこう。

images thumb 新規事業アイデア作りは「レシピ」作りである

2.作る料理を決定する

次に、どんな料理を届けたいかを考えよう。即ち、食べる人の欲求を満たし、喜んで貰える料理を考えるのだ。

皆さんが家庭を守る奥さんならば、家族に今日はどんな料理を食べて欲しいのか、どこで街のレストランやファミレスの料理とは違う、家庭ならではの味を出そうか、なんて考えたりしませんか?料理を食べる家族一人一人の顔を思い浮かべながら、その人達の好みも考慮しながら、使えそうな材料をベースに料理のメニューを考える。今日は寒いし、外回りで疲れているだろうから、暖かくて、がっつりしたものが食べたいだろう、とか考えながら。

企業でいうと、これは想定顧客に提供する製品・サービスを考える部分になるだろう。顧客を思い浮かべ、彼らが求めるもの、純粋に喜んでもらえるものだろうものを考えてみるのだ。(当然、彼らのことを知れば知るほど喜ぶものが想像しやすいのだ)

 

3.食材を揃え、工夫をする

そして、今晩の料理が大体決まったら、また冷蔵庫を確認して、手持ちの食材をもう一度見てみる。足りないものはスーパーで調達できるかどうかを考えればいい。キーとなる食材はこだわりの食材にしてもいい。今日は冷蔵庫の宮崎産地鶏を使って、久しぶりにあの人の好きな親子丼にしようとか、そういう話だ。

 

同時に、その中で自分なりの工夫を加えていく。普通の親子丼じゃつまらない。自分なりのこだわりとか、経験に基づくものでもいい。辛いもののおいしさを知って欲しいと思う人なら、辛めの食材を入れてみるとか。辛い調味料を入れてみるとか。そう、今晩は冷蔵庫のキムチと成城石井に売っていた石垣島の食べるラー油、そしてインド産のカレー粉を振りかけた、「わが家オリジナル特製親子丼」を作ってみるのだ。

 

4.修正する

こんな風にして食材を見て、完成形をイメージしながら食材を切り始め、途中で味見をしながら修正し、完成させていく。ひょっとしたら先週のカレーの時にうまくいったように、隠し味にチョコレートを入れることを思いつき、味の深みを調整するように、最後の最後まで理想の味に近づけていく。

 

5.完成!

そうこうしているうちに、料理は完成。どんぶりに親子丼を盛りつけ、付け合わせとお味噌汁をセットでテーブルに運ぶ。そして、熱々の親子丼を食べてもらい、喜んでもらったり、ちょっぴり辛口な意見を貰ったり。そしてもらった意見は次に活かしてみようかな、とかそんな話だ。

 

まとめ

ふう。随分長いたとえ話になってしまった。でもどうだろう?新規事業アイデアも似たようなものでは無いだろうか?

 

そう、新規事業のアイデア出しというのは、自分なりの「材料の組み合わせ方法」と考えればいい。自分達なりのオリジナルレシピの考案なのだ。

持っている材料や手に入りそうな材料を見て、同時に顧客が求めていそうなものをイメージし、材料を組み合わせて、顧客が欲しいものに変えていく作業。

大事なのは、そして新しい部分は、材料を組み合わせ、お客様に喜んで貰う料理に完成させていく「レシピ」の部分なのだ。

 

そんな風に考えると、新規事業アイデアの創出もそんなに難しくないと思えてきませんか?机に座って難しい顔で同業他社の成功事例を調べているより、週末、たまには自分で料理をしながら、改めて自社の抱える材料や、お客様が食べたいもの、喜ぶものを柔らかい頭で考えてみるのも悪くないかもしれませんね。

 

だんだんお腹が空いてきましたね。皆さんで素敵なオリジナル親子丼レシピを作りましょう!

 

参考:Paul M. RomerのEconomic Growthという文章から影響を受けました。

2013年 : 遠くの山に向けた新しい一歩


2013年が始まり、もう10日が過ぎた。

すっかりいつもの日常が始まり、新しい物事がだんだん加速しながら動いていく。
「先手必勝」とばかり新年からバリバリ働く人も居れば、まだまだ正月気分をひきずった楽しそうな顔をしている人も。
いずれにせよ一様に、来るべき年への期待と多かれ少なかれ意気込みを持って、1年を進み出している。

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僕はというと、特に変わらない。例年通り、今年の10大目標を立てた。

昨年の10大目標を振り返り、できなかったことの見直しとともに、今年も引き続き取り組みたいことを見つけ出す。
自分の将来のありたい姿を再確認し、それに向けて今年取り組みたいことを洗い出し、10個に絞る。そして、印刷して自宅トイレに貼り付けるのである。

(10大目標については昨年のエントリご参照)
http://www.minato55.com/2012-started/

 

独立して良かったなと思うことは幾つかあるが、そのうち一つは「自分が成し遂げたいこと」がどんどん明確になってきたことだ。

大学生の頃から、僕も最近のワカモノに勝るとも劣らず、折に触れて自分探しをしていた。「自分の人生で何を成し遂げたいんだろう」、と。
旅で自分を見つめようと、ご多分に漏れずインドで一人長期放浪をしたり、国内自転車の旅をして思いつきで下車して、目の前にある山に登るなど(しかも雪山で遭難しかけた)、いろいろやっていたけど、全然見つからない。やりたいことが言える友人、働きたい会社がある友人をうらやましく思った。

で、こんだけ探してみてみつからないならしょうが無い、と開き直り、こうすることにした。
まず35歳で独立すると決めた。それまでに自分の成し遂げたいことを見つけるのだ、と。期限を大幅に伸ばしたのである。

そして、それまでスキルを高め、色々な経験をしよう、と何となく自分の方向性・志向に近そうな方に向けて直感で、(そして人の縁で)働く場所を選んでいったわけだ。ちょうど、自分の登るべき山がありそうな方向に向けて、とりあえず目の前にある山を登り始めるように。

 

35歳になり、自分との約束通り会社を辞め、会社を創った。ゼロベースになり、何でもやっていいんだよ、という環境になったという点では、大学生の頃の自分と変わらなかった。

でも、それまで10数年、自分の感じる方向に向けて山をアップダウン、行ったり引き返したりしているうちに、視野や世界が変わっていった。行き交う様々な人と会い、彼らが登りたい山について見聞きし、こういった生き方がいいな、という人を何人も見つけた。その10数年の経験が自分の中のコンパスとなり地図となっていた。

 

独立すると誰しもが不安に陥る時がある。その時に支えと成るものあると無いとでは大違いだ。不器用な自分は、こういう10数年の紆余曲折を得て、ようやく自分の登りたい山が見えてきたようだ。しかもそのためのコンパスやこれまでに登ってきた道筋も載った地図も携えて。

目標さえ決めてしまえば、あとは、自分が得意(だと思っている)実行のみ。目標を立て、PDCAサイクルを回しながら、柔軟に、且つ愚直に進んでいく。

 

人生は短い。成し遂げたいことは多い。そんな健全な危機意識を持ちながら、今年も年末年始、10個の目標を立てるのである。
(そして達成できるのはそのうち何割しかないという・・・)

photo by: Satoru Kikuchi

新規事業立上げの心得


先日、ふと日経新聞を読んでいたら、以前の職場の同期が一部上場企業の社長になっていた。早速おめでとうの連絡をしたら、「お互い前進あるのみだ、頑張ろう」と帰ってきた。新たなチャレンジ・より大きなステージに前向きに立ち向かう姿勢は相変わらずだ。

newspapers bw 4 150x150 新規事業立上げの心得

彼とは、新卒で入った商社の同期だが、その後の転職先でも偶然一緒になった仲である。(いきなり職場の机の隣に立っていてびっくりした覚えがある)
同じくネット分野でのマーケティング、新規事業立上げが専門で、刺激を受けることも多かった。そもそもナイスガイで、僕よりサッカーも数段うまいのがタマにキズだが。

そんな彼から教わった、とても好きな考え方が一つある。大げさに言えば「新規事業立上げの心得」と言ってもいいものかもしれない。

 

あれは、転職先でのある暑い夏の日の残業中のこと。僕は彼とメッセンジャーで仕事でチャットをしていた。(その会社ではメッセンジャーを業務で普通に使っていた)

で、何かの流れで雑談となり、僕がメッセンジャーでこう送った。

「将来起業して、新しいサービスを立ち上げたいと思ってる。」

「ネット系をやりたいけど、参入障壁も低く競争も激しいし、そう簡単には上手くはいかないよなあ」

 

 彼は以前、ゼロから新しく市場を創り出すサービスを立ちあげたコアメンバーだった経験を持っている。だから何かしらアドバイスくれるかな、と心のどこかで思っていたかもしれないし、単に自分の気持ちを誰かに伝えたかったのかもしれない。30代前半。自分のはやる気持ちを若干もてあましていた頃なのだ。

すると、彼からのメッセージがメッセンジャー経由で送られてきた。一文一文。次々と。いつもの力強い口調そのままに。

 

「なるほど。確かにそんなに成功確率は高くないかもな。だけどこういう考え方もある。」

「例えば、オマエが立ち上げる、ある新サービスの成功確率が30%だったとしよう。」
「確かに70%は失敗する。。。だけどな。」

 「1回目だけで成功しなければならないことはない。2回目チャレンジすることを考えてみればいい。 成功確率は、100%-70%×70%=51%だ。」

 「3回にしてみろ。そうしたら、100%-70%×70%×70%=66%。つまり、オマエの成功確率は66%なんだ。」

 「実際には2回目、3回目は失敗の経験を活かしているからもう少し成功確率はあがる」

「いかに早く見極め、立ち直り、修正していくか。諦めずに信念を持って続けていくか。これが大事だ。」

 

メッセンジャー経由で短文が次々に送られてくるたびに、なるほどとハラオチしながら、何だかとても興奮したことを覚えている。そして勇気をもらったことを覚えている。

 

 僕は、今でもこの考え方をとても気に入っている。
いつか書こうと思っているビジネス小説に、この場面は必ず出したいと思っている。

以上、応援に代えて。お互い失敗を恐れず頑張っていこう。

photo by: NS Newsflash

幸福人とは


toast  1 150x150 幸福人とは昔からよく、「あんまり悩みが無さそうだよね」とか、「毎日楽しそうでいいよね」とか言われる。

確かに昔から基本的に毎日はわりと楽しい。少なくとも昔から悩み事は少ない。放っておくとすぐ脳天気な顔つきになる。プロフェッショナルファームに居た20代後半や事業会社の管理職であった30代前半は、オフィスの空気を壊さないよう、基本的に少し表情を堅めにして日々過ごすようにしてきたくらいである。

それでも「地」というものはでるもので、ある会社では「ランチタイムとはいえOLちゃんのように楽しそうに振る舞わないで下さい」と、取締役から定期評価時に注意を受けたこともある。ほぼ小学生並である。

多分それはあんまり辛いことを覚えていないから、ということもあると思う。30何年も生きているのだから、それなりに辛いこともあったはずなのだが、基本的に過去の辛い思い出はほとんど記憶に残っていない。思い出したのは、高校のサッカー部の時の100本ダッシュとか、インド1ヶ月1人旅で3日目にカネを巻き上げられ腹も壊して帰りたくなったこととか。実にしょーもないものばかりだ。で、覚えているのは楽しい思い出とか、幸せなシーンだけである。嗚呼、何たる薄っぺらい人間であることか!

で、そんな僕の感覚にピッタリ来る言葉を見つけた。萩原朔太郎先生である。

 

幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、

不幸人とは、それの反対を記憶している人々である 

「絶望の逃走」萩原朔太郎

 

うんうん、そうそう。そうだよな。そんな気がするよ、朔太郎。自分の気持ちはとても大事なのだ。

僕も会社を立ち上げる前後くらい、少し不安な日々があったけど、その時は毎日1日の終わりに「今日起こった3つのいいコト」を声に出して数えていた。探してみれば些細なことでもいいことはあるもので、「ホームに来たら電車がドンぴしゃで来た」、とか、「こんなお菓子をもらった」とか、そんなのも加えながら無理矢理3つ数えていたら、けっこう幸せになってきたものだ。

 

うーむ。こう文章にしてみると、非常にマヌケな感じである。

まあ、けど、1人1人の幸福感って、相対的なものにすべきでなく、本質的には本人の中で絶対的なものだと思うから、こんなものでいいのかな、とも思っている。

photos by: oskay & oskay

「最近のワカモノ」論について思うこと


「最近の若者はガッツが無い」「最近の若者はネットばかりやってリアルのコミュニケーション力に欠ける」・・・。世の中のお歴々からの「最近のワカモノ論」を相変わらず新聞や雑誌で見かけることがある。

多分これは古代エジプト文明の王朝でも、ルネサンスの時代の芸術家たちでも、江戸時代の武家社会でも変わらない、古今東西共通の、延々と繰り返されている原理なんだろう。

 2011041 300x225 「最近のワカモノ」論について思うこと

僕もそろそろ見方によっては、「若者」という括りの中から外れてきそうな年齢になってきたけど、「青春とは年齢ではなく心の若さを言う」と歌った詩人もいたように、気持ちはいつでも若者。そして限りある人生で、自分にしかできないユニークな何かができれば、と常に思っている。

でも、確かに、「野心が足りない」とか「ガツガツ感が見えないよね」とか言われたり、物足りなさそうな顔をされると、「まあ、そうだよな」とも思ったりする。とは言え、それって本当に大切なことなのかな、というような違和感を感じていた。

 

そんなモヤモヤ感がちょっと前、1月10日の日経新聞朝刊の藤沢久美さんのインタビューを聞いてすっかりハラオチした。以下に引用する。

(インタビューアー)『若い人が元気がない』と指摘する中高年がいます。

(藤沢氏)「若い人はその時代に足りないものに対してハングリー。今の経営者や管理職の人は若い時、お金やモノに対してハングリーだった。今の若者は共感や社会を良くしたいとの思いに対してハングリーだ。上の世代が『若者に元気がない』と感じるのは、自分たちがかつて渇望したものを今の若者が求めないからだ」

(藤沢氏)「社会的な課題をビジネスで解決する社会的起業に関心を持つ若者が多いのは、今の時代に足りないものを生み出したいから。高度成長期の若者はお金やモノを生み出すため、家電や車を作る会社に入った。この人たちが豊かさを築いている間に足りなくなった部分に、今度は今の若者が光を当てていると考えれば、若者の振る舞いとして自然ではないか」

これは確かに僕の実感値と合うなあ、と。
そう、既にある程度出来上がったもの、ある程度満ち足りたものを上積みするために自分の時間・力を使うよりも、目の前にある課題、自分で違和感を感じる問題を解決するために時間を使いたい、すなわち今の時代に足りないモノを生み出したいと思うのだ。

 

だからなのか分からないけど、僕は、例えば、「地域」とか「グローバル環境下の教育」とか「医療」とか、そういった、現代の、そして将来も課題となり続けるであろう事に関わりたいと、ずっと漠然と思ってきているのかもしれない。

 

社会は70年周期だという説がある。日本でいえば70年前は第2次世界大戦の真っ直中。そのまた70年前は明治維新だ。東日本大震災も含め、日本社会が何らかの大きな転機を迎えているのではないか、と今回は割と本気で感じている。

 

その中で、自分の果たすことが出来る役割、果たすべき役割は何だろう。仕事の合間にコタツに入り、ふとそんなことを考える、6年ぶりの大雪の翌日であった。

2012年の始まり


さあ、2012年が始まった。NEC 10262 2012年の始まり

年末年始、じっくりと充電し、来るべき勝負の年のスタートに備えた。

 

やりたいことが山ほどある。仕事面でも個人的な面でも。

既に年内から仕込みを始めていることもあるし、これから構想を練る必要があるものもある。

 

沢山のやりたいことの中から、今年為すべきことを10個に絞る。

毎年「10大目標」を作るのが最近の僕のやり方。

1年は360日余り。もちろん全てをやり切れるのかは分からない。

でも、本気で10個の目標達成を目指して計画を立てていく。

そして、年末に振り返り、達成できたことは素直に喜び、達成できなかったことは悔しく思い、必要なものは翌年に繰り越す。

これくらい背伸びした方が僕の場合は上手くいく。

 

人生は全勝する必要はない。

勝ったり負けたり、上がりながら沈みながら、最終的に自分の望む自分になれれば良い。

そしてその挑戦の過程を楽しむことが、僕にとっての人生の喜びであり、自分の望む自分なのだろう、とふと思う。

 

今年は仕事絡みの目標が多くなった。独立により、仕事が完全に「自分ごと」になったためだろう。

こんなにワクワク、ドキドキしながら迎えられた年末年始は久しぶり。1年後の僕はどうしているだろう。

どんな思いでこの10大目標を振り返っているのだろう。

 

できることは1日1日、自分の直感とこれまでの蓄積を信じながら、人との繋がりを大切にし、目の前のことを精一杯やっていくだけ。

家族や周囲の人の理解の下、与えられたこのチャンス。全力で頑張って、時には肩の力を抜きながら、悔いの無い1年を過ごしていきます。

“Be Nice to All !”


今年もいよいよ年の暮れ。窓を通して見える夜は漆黒で空気が透き通るようだ。 

11月11日に会社を設立してから、1ヶ月半。初めての年末を迎える。
お陰様で面白い機会を色々と頂いており、大きな希望を持ちながら年末を迎えられる。本当にありがたい。

 こうした機会のほとんどは自分の知人経由で頂いたもの。まだ何の実績もないかけだしの会社にとっては、人の縁のありがたさが身にしみる。
そんなことを感じていると、ビジネススクールの教師から貰ったある言葉をふと思い出した。

INSEAD image 300x225 Be Nice to All !

 

僕の通っていたビジネススクールでは、最終学期に行われるクラスの最終日になると、授業の最後にそのクラスの教授が、これから社会に再び出て行く学生達に向かって、最後のはなむけの言葉をくれるのが習わしになっている。

熱く長い言葉を切々と語ってくれる教授も居れば、照れくさそうに軽い言葉で終わる教授も居る。百戦錬磨の教授達による最後の言葉を僕たち学生は楽しみに待つ。

 

そこで一番多かった言葉。それはなんと 「Be Nice to All !」 だった。(といっても2人だけなのだが)

“周りのみんなにナイス(感じ良く、くらいの意味合いだろう)でいるように。”

正直、これを聞いたときは拍子抜けした。仮にも世界で一流のビジネススクールだ。ビジネスやキャリアに関する忠告やもう少し深遠なアドバイスがふさわしいだろう。小学校の生徒に向けるような言葉はちょっと場違いじゃない?と。

だから、僕は他のもう少し気の利いた言葉を心の中に書き留めて(名言好きなのだ)、こんな言葉はすっかり忘れてしまっていた。

 

それがどうだろう。自分の力で立っていくことを決意し、みんなの好意に感謝をしていく中で、この言葉の重みがようやく分かった。
結局は、自分を支え、助けてくれるのは周りの人なのだ。一人では何も出来ない。今までの社会人人生や学生生活で偶然にも知り合った人の中で、僕に好意を持ってくれる人が僕を陰に日向に応援してくれるのだ。

それには当然ナイスな人間であることが必要だろう。イヤな奴と進んで仕事をしたい、と思う人は少ない。

 

周囲の人々にナイスであること。これは周りの人の気分を明るくし、それによって自分も楽しくなる。それだけでも十分なのに、長期的に仕事上でも繋がりが出てくる可能性も出てくる。そしてその人を裏切らないように一生懸命仕事をする。なんて素晴らしい連鎖関係だろう。
必ずしも打算的な意味では無いけれど、人の縁で繋がったナイスな人と楽しい仕事ができればこれ以上何を求めることがあるのだろう。

 

子供の頃から教わっていることというのは、やっぱり重要なことなんだ。

First 30 days


本日でちょうど設立1ヶ月。あっという間に日々が過ぎている。2011 12 12 00.01.43 300x225 First 30 days

会社を設立するかどうかも迷っていた時期から考えると、いざ腹を据えて会社を興してからのこの1ヶ月はずっとスムーズに動けている。

きっと迷いが減ったためだろう。自分の力でやっていこうという覚悟。この覚悟が自分に意志の強さと行動力をもたらしている。

 

野田政権も昨日で政権発足100日を迎えたようだ。ビジネスの世界でも「First 100 Days」という言葉があり、特に企業再生などでトップが変わった際に、最初の100日間が肝心という。代表例としては、日産のゴーンの改革。就任後、社内の幅広い層との会話を重ね、改革の方向性を定め、就任3ヶ月後の記者会見で皆が驚くほどのV字改革の案を提示した。その後の成功の過程は周知の通りだ。

 最初は新しいトップへの期待感もあり、お手並み拝見のモードとなる。その間に皆の期待に答え、期待を上回る結果を出し、周囲を引き込んでいく。これがゴーンに限らず成功した指導者の共通項だ。

 

僕にとっても同じ事が当てはまる。この最初の1ヶ月間、ありがたいことに様々なチャンスを頂く機会が増えてきている。周りの皆さんからの期待や応援の形だ。

頂いたチャンスに一つ一つ丁寧に、きっちりと応えること。今、僕がやるべきことはこれしかない。

やるべきことに迷っていた数ヶ月前とは異なる気持ち。自分が必要とされる喜び。

人生で初めて胃炎になった(かもしれない)など、知らないうちに苦労もしているみたいだけど、そんな訳で、今は、とても、充実している。

仕事観と先輩と


 仕事観と先輩と昨晩、商社時代の先輩と2人で飲んだ。

久しぶりの再会。渋谷駅で待ち合わせ、オフィス近くの沖縄料理屋で4時間近く。中々素敵なお店であった。

 

僕は率直な人が好きだ。そして朗らかで良く笑う人が好きだ。先輩は10年前と全然変わらずその美点を持ち合わせている。僕はとても楽しい時間を過ごした。

 

社会人1年目。それまで同世代としか接したことがなく、身近にもサラリーマンがいない環境で育った僕は、世間や社会というものに対する経験値が絶対的に少なく、社会のしきたりやマナーに疎かった。「仕事観」も独りよがりで、加えて始末に負えないことに、自分が正しいと思っていた。何の経験も無いのに。

 

案の定、そんな僕は結構苦労した。どうでもいいことに悩み、苦しんでいた。今考えると、上司も指導員もみんな非常に親切だった。親切すぎるくらい親切だった。でも、僕は相変わらず独りよがりで、周りに合わせようという努力をせず、分かる人だけ分かってくれればいいと思っていた。仕事は一生懸命やっていた。でも仕事は楽しいものというより、自己修行として受け止めていた。そして、何のために仕事をするのか、日々悩んでいた。

 

そんな中、同じ部の先輩達はいつも僕を助け、支えてくれた。きっと「しょうがないなあ、コイツ」と思いながらだったと思う、でも色々と親身になってフォローしてくれた。23時前に職場を出て、お決まりの店に行き、みんなで飲み、夜遅くに帰った。たまに山に連れて行ってくれた。そんな不器用な励まし方が大半だったと思う。でも、そんなことを繰り返すうちに、自分の中の悩みとか苦しみはいつしかどうでもいいものになっていた。学生時代チームスポーツが大好きだった僕は、仕事でも仲間がいることにやっと気づいたのだ。

 

お恥ずかしながら、未だに自分の中の「仕事観」は未完成だ。昨日の先輩との会話でもそれを気づかされた。自分の「原体験」が「仕事観」に繋がり、「仕事観」が「経営観」に繋がり、「経営観」が強い「想い」に昇華し、それが人々を動かす。それが今の僕には絶対的に足りない。だから迫力が無く、思考がフワフワしてしまうんだ。そう気づいた。

 

「まだボクも仕事観ができている訳じゃ無いんやけどな。」と先輩は言う。そんなことを言いながら照れ笑いする姿も昔と全然変わらない。

 

いつまでも目標の先輩の1人。そういう人が沢山居る幸せ。自分を応援してくれることへの感謝の気持ちと共に、自分も負けては居られないと、期待に応えたいと、強く思う。

勇気を失うことはすべてを失うことである (ゲーテ)


1 勇気を失うことはすべてを失うことである (ゲーテ)本日の日経新聞「私の履歴書」に、心に残る言葉を見つけた。

寺澤芳男さんの最終回だ。

寺澤さんは、以前日経新聞の夕刊1面にコラムを書いておられる頃から気になる方であった。米国野村證券社長、参議院議員、経済企画庁長官、ローンスター会長を歴任しているいわば重鎮ながら、気負わない洒脱で軽妙な文章を書く。それでいて、読む人の心にしっかりと何かが残るのだ。

 

そんな彼の履歴書の締め括りの言葉。若い世代へ贈る言葉として、ゲーテの言葉が引用されていた。

財を失うことは小さく失うことである。
名誉を失うことは大きく失うことである。
勇気を失うことはすべてを失うことである。

また一つ、 前に進む勇気を貰った気がした。

創業にあたり


2011年11月11日に、会社を設立した。2011 11 24 11.23.35 225x300 創業にあたり

今日で丁度2週間。色々な役所の手続きとか銀行での法人口座開設とか、結構メンドウなものも楽しみながら終えて、いざ本番だ。

 

今までお世話になった人やつきあいのあった人、友人達へのご連絡。

僕は筆無精(連絡無精)だから、何か口実がないと、また連絡したいな・会いたいな、という人にも中々連絡できない。自他ともに認めるダメなところだ。なので、会社を作ったというのはそういう意味では、とてもいい口実だ。

 

1人の会社だし、何をやるかは自由だけど、決して1人では何もできない。何より1人でやって成功しても、全然嬉しくない。

幸い、ここ2ヶ月で、同じ方向を目指せるビジネス上のパートナー様が見つかってきている。

 

「世の中で求められていること」× 「自分の出せる価値」×「自分のやりたいこと」の交差点。

そんなキレイな話は世の中にはなかなかないとは知っているけれど、あきらめて、自分の可能性を狭める必要は全然ない。動きながら探し続ける。

 

まだ、もやがかかっている今後。その不確実性を楽しんでいきたい。

※写真は前職の仲間内で開いてくれた送別会でケーキの上に飾られていたカード。ついに出番です。

吉祥寺にてネパールカレーを食し、暫しの思い出に浸る


今日は、小雨降り注ぐなかではあったが、気分転換のためにも、久々にジムへ。バーベルを上げて、汗を流した。

体を本格的に動かすのが久しぶりだったので、とても気持ちよかった。ただ、以前よりも筋肉の持久力が落ちていることを実感。筋トレも、継続が何よりも大事だ。

 

その後、前から気になっていた、吉祥寺のネパールカレーの店、「Sajilo Cafe」へ。

食べログ ⇒ http://r.tabelog.com/tokyo/A1320/A132001/13049661/

 

 吉祥寺にてネパールカレーを食し、暫しの思い出に浸る

 

野菜の甘みを十分に生かしたカレーの味と、サクサクで軽いナンがとても美味しかった。特に、本日のメニューである「さといもとだいこんとチキンのカレー」は、ダイコンの甘みが得も言われぬ味を出しており、僕をとても優しい気分にさせた。

 

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ネパールには大学4年生の9月に2週間ほど旅をしたことがある。

ヒマラヤ山脈を3500メートルほど登って絶景を楽しみ、ジャングルに行って大雨に降られ、暖かい日射しの下でまどろんだ。僕たちが滞在したポカラという街。人々は皆暖かく、穏やかだった。空が高く青かった。いい思い出しかない。

そして、恐らくあの時からであろう、僕が山を好きになり、いつか山に囲まれた街に暮らしたい、という思いが生まれたのは。

 

大学を出て就職する際、1人暮らしの人間は最初は全員社員寮が原則だったのを、すっかり山に惹かれていたひねくれ学生の僕は「山の麓から通いたい」 と一人主張して、京王線の終電であった八王子の「橋本」という駅に暮らす算段を立てた。行ったことも無い駅であったが、地図を何度も見ながら、絶対にここ にしようと決めていた。東京の中心部である竹橋の会社まで片道2時間。朝6時に起きれば間に合うだろうし、山に囲まれて暮らせるならば、多少の睡眠を犠牲 にするのは仕方がないだろう、と考えていた。そして、週末は近くの奥多摩の山を登るのだ。こんな素敵な計画は無いだろう、とワクワクしていたのだ。

 

結局、入社前の世間知らずな僕の野望は、人事部の部長に一蹴され、みんなと同じように社員寮に入ることになった。バブル期に建てたと思われる、小田 急線沿いの住宅地にある素敵な寮だった。朝食も出て、広いお風呂もあり、テニスコートから麻雀部屋まであった。そこで同期と仲良くなり、その同期の紹介で 今の妻と会うことになるのだから、人生は分からない。

 

「Sajilo Cafe」の優しいネパールカレーの面影が、昔の青臭いころの僕の記憶を呼び覚ました、けっこう素敵な日曜日の午後であった。

薩摩の教え 漢の順序


先日、ふとテレビでNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」の再放送を見る機会があった。

奇跡のリンゴの木村さんなど、何人もの魅力的な人とストーリーが取り上げられており、大いに刺激を受ける内容であった。

その中でも、僕の心に刺さった言葉。それは、若き日の外科医の上山博康氏が先輩に言われた言葉。

 

「批評家になるな、いつも批判される側にいろ」

 

自らは新しい挑戦をせず、挑戦をする人のケチをつける人になってはならない、と。常に新しいことに挑戦する側に立て、と。

若き日の上村氏を発奮させるためにも、上のような言い方をしたのだろう。

 

それを聞いて、僕の大好きな言葉をふと思い出した。「薩摩の教え~漢の順序」だ。

この言葉を読んで、奮い立たない男がいるだろうか。

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薩摩の教え~漢の順序


1 何かに挑戦し、成功した者
2 何かに挑戦し、失敗した者
3 自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者
4 何もしなかった者
5 何もせず批判だけしている者

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気力・体力ともに充実している今こそ「挑戦」をする。

そして、そこで得た経験や知見を元に、挑戦した人・挑戦する人の手助けをし、

世の中に1人でも多くの「漢」が生み出される一助になりたい。

 

これが、大雑把にいえば、僕が持っている唯一の人生設計なのだ。

マレー鉄道


今日の日経新聞に、マレー鉄道の廃線についての記事が載っていた。

正確にいえば、タイ・マレーシア国境からマレーシアを縦断しシンガポールにまで到達するマレー鉄道のうち、シンガポール国内部分についてのみ、先日6月30日に廃線になったというもの。

近年は自動車や航空路線の発達で利用者が激減しており、タダでさえ国土が狭いシンガポールにとってはこの鉄道廃止と鉄道用地の返還が悲願だったとのこと。シンガポールにとっては、国の中心部に大きな土地が手に入ったことになる。

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このマレー鉄道の記事、日曜日の僕の頭をしばし嘗ての思い出に連れて行った。そう、あれは大学1年生の夏。僕の初めての海外旅行の思い出だ。

高校生の時に、図書館の司書の方(鈴木女史)に薦められ、戦国時代モノ以外はほとんど本を読まなかった僕が手に取った(取らされた)本が、沢木幸太郎の「深夜特急」だった。

それまで狭い名古屋の一地域からほとんど外に出たことがなかった僕は、そのバックパック1つでバスだけで、計画もなく、流れのままに大陸を横断していくその冒険話に大いに刺激され、大学に行ったら海外に行き、世界を見なければ、という思いで一杯になった。

また、書中で、旅に出る理由として書かれていた、「大切な人に語れるものが1つくらいあってもいいかな、と思った」といったセリフ(正確なのは忘れた)が、くだらないおしゃべりを嫌いハードボイルドにあこがれていた僕にとっては大層カッコよく、自分も1つくらい自分だけのストーリーを作りたい、と単純に思っていたのだ。

 

そんな思いを抱きつつ突入した大学生活最初の夏に、僕は高校時代の友人、モトジとタチと3人で、念願の旅に出た。飛行機でタイのバンコクから入って、長距離バスでマレーシアまで行き、そこからマレー鉄道でシンガポールへ到達するという旅だ。確か1週間も無かったくらいの短い旅行だ。

でも、ミミズが這うようなタイ語が全く読めずに迷子になったり、トゥクトゥクという三輪タクシーにボラれそうになって運転手とタイ語vs日本語で戦ったり、長距離バスで真夜中に何もない所でいきなり起こされ現地の田舎の屋台で強烈なタイフードを食べさせられたり、尿意が限界を超してバスで地獄の苦しみを味わうなど、道中バックパッカーならではのハプニングも多く、僕らは大いに満足していた。そして、クアラルンプールからマレー鉄道に乗り(とても快適だった)、最終目的地のシンガポールに着いた時、若い僕たちはとっても満足し、ラッフルズホテルでカッコつけてシンガポールスリングを飲んだものだ。

 

もともと、マレー半島をバスと鉄道で行くというアイデアは、地図上でしか知らない地球の大きさを、体で体感してやろう、というものだった。道中、僕らはお決まりのようにつぶやくのだった。「地球もそんなに広くはないなあ。」 一生のうちに、世界中を見てやるんだ。そう思っていた。

 

そんな気持ちを抱いていた18歳の夏。気がつけばあの頃の倍の年齢に近づいている。世の中のことを何も知らなかった、けれどもその分、情熱と1つのことにかける熱意がもの凄かったあの頃の気持ちを思い出し、若干切ない思いを感じながら、負けてられないな、と強く思った秋の日の朝だった。

マレー鉄道は永遠に僕らの心の中にある。